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グスコーブドリの伝記

今日は七夕ですね。
毎年毎年、七夕の日は天気が悪くて天の川が見えない印象がありますが、
今年は特に酷く、日本各所で大雨警報が発令されました。
七夕に降る雨は織姫と彦星が流す涙で「洒涙雨」と呼ばれますが、
雨が降ると天の川が増水するので2人は会えなくなり、その悲しみで涙するのです。
その涙が雨になるわけだから一種のパラドックスですね。
まぁ織姫と彦星が会えないことぐらいならどうでもいいことですが、
こうも雨が続くと何かと面倒です。
洗濯物は天日干しできないし、野菜の値段も上がってきました。
湿度も高くて、節電しなきゃいけないのに、ついついエアコンで除湿したくなります。
地方によっては、それどころではなく、土砂崩れなんかも心配です。
早く梅雨が明けてほしいですが、梅雨がすぎれば夏本番。
今年は平年より暑くなると言われており、厳しい夏になりそうです。
日本は気候がいい国のように思われている気がしますが、
冬は寒いし、春は花粉が酷く、その後梅雨になり、暑い夏が来て、秋は台風のシーズンと、
何気に過酷な気候なんじゃないかと思います。

ということで、今日は気候をコントロールしようと試みる物語の感想です。

グスコーブドリの伝記

2012年7月7日公開。
宮沢賢治の童話をアニメーション映画化。

イーハトーヴの森で家族と暮らしていたグスコーブドリは、森を直撃した冷害のせいで両親と妹を一度に亡くしてしまう。たった一人残された彼は懸命に働き、長じて火山局で働き始めるが、またしても大規模な冷害が発生する。かつての惨事を二度と繰り返さないようにするため、グスコーブドリは自分の身を呈して冷害の被害を防ごうとする。(シネマトゥデイより)



宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』をネコのキャラクターで描いたことで話題となった
1985年のアニメ版『銀河鉄道の夜』から27年、当時の監督やスタッフが再び集まり、
宮沢賢治の童話『グスコーブドリの伝記』を再びアニメ映画化したのが本作です。
ボクが『銀河鉄道の夜』を観賞したのは、たしか小学校の国語の授業だったと思いますが、
前作からかなりブランクが空きましたね。
アラサーのボクでもギリギリなので、今の若い人は前作を知らないかもしれません。
しかし、それ以上に衝撃的だったのは、宮沢賢治の代表作のひとつである、
本作の原作を知らない人がけっこういることです。
ボクは本作の前売券をチケット屋で買った時に、若い店員さんでしたが、
ボクが「『グスコーブドリの伝記』の前売券ください。」とちゃんと注文したのに、
全く聴き取れなかったみたいで、「グースブ…、え?」と聞き返され、
何度も言いなおさせられるはめになり、往生しました。
それだけなら、その店員さんがたまたま無知なだけとも考えられますが、
いざ映画館で前売券と座席券を交換する時も、若い従業員さんでしたが、
「グコスードブリの伝記…ですね?」と、タイトルもままならないようで…。
たぶん今日まで聞いたこともないタイトルなんだろうなと思いました。
どちらにしても自分とこで扱う商品くらい、把握しとけと思いましたが、
たしかにわかりずらいタイトルだから、原作を知らなければ仕方がないのかな?

そんなブランクのある作品だから、お客さんも前作を知る世代が多いかと思いきや、
意外と小学校低学年くらいの親子連れが多く、ちょっとビックリしました。
ただ、本作は少々難解なところがあるので、小学生では厳しいかもしれません。
前作の『銀河鉄道の夜』もかなり難解で、当時のボクにはトンチンカンでしたが、
前作は原作からして難解な物語なので、それも仕方ないです。
しかし本作は、原作はけっこうわかりやすい物語なのに、
アニメ化されるにあたってかなり小難しくなってしまっているように思います。
本作は宮沢賢治の童話が直接原作になっているというよりは、
ますむらひろしの漫画版が原作なのですが、彼はある意味、宮沢賢治の専門家なので、
深く、小難しく解釈しすぎているんだと思われます。
その解釈が正しいかはわかりませんが、本作は原作よりも難解なのは間違いないです。
ただ、大人が観る分には全く問題なく、むしろ巧い脚色だと思いました。

前作『銀河鉄道の夜』と同様に本作もネコのキャラクターで描かれており、
これも一種の脚色ですが、これにより擬人化されたネコの世界の物語になり、
現実世界とは違う架空の世界として、多少の非現実的な展開にも目を瞑ることができます。
主人公のグスコーブドリという珍しい名前も、人間だと外国人だとしても変な名前ですが、
ネコであれば、どんな名前でも変だとは思いませんしね。
だた、前作よりも作画技術が向上したことにより、擬人化でより人間っぽさが増し、
キャラによっては、ちょっと不気味の谷に落ちかけているようにも思えます。
もっとネコっぽくデザインしてもよかったかもしれません。

イーハトーブの北の森で、両親と妹ネリと4人で幸せに暮らす少年ブドリでしたが、
ある年、深刻な冷害により、森は大飢饉に襲われます。
冷害は翌年も続き、食べ物は枯渇し、ついに両親は家から出て行ってしまいます。
これは両親が子どもたちを見捨てたというよりは、子どもたちのため、
口減らしで自分たちがいなくなったということのようですね。
この物語の舞台は、1920年代に冷害にみまわれた東北地方がモデルで、
なんでもイーハトーブとは宮沢賢治の故郷、岩手県のことなんだそうです。
彼がその冷害を直に体験したのかは知りませんが、本作を見る限りではかなり深刻です。

両親がいなくなり、兄妹で暮らし始めて暫らく後、
"飢饉を助けに来た者"と名乗る男が疾風迅雷の如く現れ、妹ネリを連れ去ります。
紫のマントを羽織った不思議な男で、彼は確実にこの世の者ではありません。
(ちょっとジブリ映画『耳をすませば』等のネコキャラ、バロンに似てますね。)
ここは原作とは大きく異なる脚色で、原作ではネリを攫うのは単なる人攫いです。
この紫マントの男は作中では名前がわかりませんが、
公式の設定ではコトリ(子取り)という名前だそうで、
原作の人攫いとは違い、本作の最重要キャラとなっています。

ついにひとりぼっちになったブドリは、森の木々に網を掛けている謎の集団に遭遇します。
深刻な冷害にもかかわらず、網を掛けられたクリの木は青々と茂り、
その葉を蚕が食べ、彼らはその繭からテグスを作っている工場の従業員です。
ブドリは工場長から、網掛けを手伝うように命じられます。
はっきり言って、全く意味のわからない展開ですが、このエピソードは原作にもあります。
しかし本作では、この出来事をブドリの幻覚として脚色しています。
これにより、全く意味のわからない展開も、幻覚だから仕方がないと割り切れるのです。
この手法は原作を踏襲しながらも、本作の世界観をギリギリ壊さないで済ます、
巧い脚色だと思いました。

その後、ブドリは森を出て山を降り里に行きますが、
里には飢饉の山からは想像もできないような棚田の田園が広がっていました。
そこでブドリは百姓の赤ひげに雇われ、彼のオリザの沼ばたけを手伝うことになります。
このネコの世界では、稲をオリザ、水田を沼ばたけと称し、異世界観を演出しています。
赤ひげは自他共に認める山師で、無計画に思いついた方法で稲作をしていますが、
当然それでは稲なんて育つはずはなく…。
ブドリは彼の家にあった本『クーボー博士の大講義録』を読んで稲作を学び、
次の年には彼のオリザ畑は大豊作となります。
しかし翌年には里を旱魃が襲い、沼ばたけの多くを失った赤ひげは、
ブドリを雇い続けることが出来ず、ブドリは都会に仕事を探しに行くことになります。

都会に出るため鉄道に乗ったブドリが着いたのは「銀河ステーション」。
その駅にはネコだけではなく、人間やいろいろなバケモノが往来しており、
それはさながら『銀河鉄道の夜』のような世界観です。
もちろんこのエピソードは原作にはありません。
前作ファンへのサービスか、或いは前作と地続きの世界観であることのアピールか…。
とにかく前作を知っている人なら「お?」となる興味深い脚色です。
駅前の街は鳥居の回廊があったりと和風な世界で、そこをバケモノが往来する様は、
まるで『千と千尋の神隠し』の湯治場のような雰囲気です。
本作はヨーロピアンな風景が多いから、ちょっと異様な光景で興味深いです。
そこでブドリは紫マントのコトリを見かけ、後を追っていくと、
通りかかった「奇術大一座」という芝居小屋の看板に妹ネリの姿を見つけます。
ここで妹と感動の再会か!?…と思われましたが、やはりここのエピソードも幻覚で、
(正確には虚実不明な出来事で、)ブドリは鉄道の中で目を覚まします。
原作では妹と再会する話もあるのですが、漫画版原作者はその展開に納得してないようで、
本作では再開シーンはバッサリとカットされています。
なんだかちょっと寂しいですね…。

大都市イーハトーブ市に着いたブドリは、例の『クーボー博士の大講義録』の著者、
クーボー博士に会いにフウクーボー大学に行きます。
イーハトーブ市は森や里とは全く異なり、高い建造物が立ち並び、
レトロフューチャーなモノレールや飛行船が行き交うスチームパンクな世界観です。
博士に才能を見出されたブドリは、火山局の仕事を紹介してもらい、
火山の権威ペンネン技師のもとで火山の研究をすることになります。
火山局の主な仕事はイーハトーブ市周辺の火山を観察することで、
噴火の予兆を発見すると、麓の街に被害が及ばないように対策を講じます。
面白いのはこの火山局には『銀河鉄道の夜』のキャラ、ザネリも務めていることです。
まぁカメオ程度の出演なので、ストーリーに影響するわけでもありませんが…。
本作を制作しているのは手塚プロだから、ザネリがゲスト出演しているのではなく、
手塚治虫の十八番であるスター・システムを採用しているのかも。
主人公ブドリだって外見は前作の主人公ジェバンニと全く同じネコですもんね。

火山局に勤めて暫らくして、ブドリは炭酸マグマのカルボナード火山の観測を任されます。
この火山では地殻変動が起きていて、いつ噴火するかわからない状況です。
連日仕事に追われるブドリですが、またしても幻覚に襲われます。
再びバケモノの世界に入ったブドリは、コトリが裁判官を務める世界裁判所で、
「境界侵犯罪」で裁かれそうになるのです。
もちろんこのエピソードも原作には無いものですが、このバケモノの世界や、
世界裁判所というのは、原作の前身となる作品『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』が
モチーフになっているとのことです。
ボクもその作品まで読んだことはありませんが、そんなネタまで盛り込んでくるとは、
本作の作り手の宮沢賢治マニアっぷりが窺えます。
前述の『銀河鉄道の夜』絡みの展開もだけど、『雨ニモマケズ』を朗読シーンがあったり、
本作は単なる『グスコーブドリの伝記』の映像化とは言えないくらい、
宮沢賢治作品オマージュが散見される内容をなっています。

それから暫らく後、測候所がイーハトーブが寒波に襲われるとの予報を出します。
森での冷害を上回る寒さが予測され、ブドリは「あの悲劇を繰り返してはいけない」と
一計を案じ、カルボナード火山を噴火させることを思いつきます。
炭酸マグマのカルボナード火山の火山ガスは炭酸ガスなので、今でいう温室効果ガスです。
それがイーハトーブの大気中に増えれば、地表の熱が大気圏外に出にくくなり、
気温が5度程度上がるのではと考えたのです。
いやはや、ブドリはすごいことを考えますね。
しかし、それ以上に感心するのは、そんな温室効果ガスのことを、
地球温暖化が問題となる以前から知っていて、それを作品で扱う宮沢賢治の先見の明です。
もちろん今となっては温室効果ガスは温暖化の主な原因とされるネガティブなものなので、
本作のようにポジティブに扱われているのにはちょっと違和感を覚えますが…。
他にも本作では火山局の仕事のひとつとして、地熱発電所の建設が言及されています。
執筆当時は地熱発電所が実用化されるかなり前のはずなので、
原作では地熱発電所ではなく潮汐発電所となっていましたが、
潮汐発電なんて現在の日本でも実用されていない発電方法です。
(技術がないのではなくて、発電効率が悪いからだけど…。)
執筆当時に宮沢賢治が再生可能エネルギーなんて考えていたわけではないでしょうが、
地球温暖化や原発問題に揺れる昨今に、とてもマッチしている物語が、
約80年も前に書かれていたことが、とても興味深いです。

カルボナード火山の噴火を人工的に起こすには、マグマに刺激を与えなければなりません。
しかし危険すぎる作業なので、クーボー博士もペンネン技師も反対します。
原作ではブドリはひとりで火口に赴き、自分の命と引き換えに噴火を誘発させるのですが、
本作ではコトリの協力を得て、火口まで連れて行ってもらい、噴火を誘発させます。
原作でも本作でも一体どうやって噴火を誘発させたかまでは描かれませんが、
どう考えても人間(ネコ)ひとりの力では、噴火を誘発させられるわけがありません。
その点では不思議な力を持つコトリの協力を得たという本作の方が、まだ納得できます。
ただ他人の力を借りたとなると、原作のテーマである「自己犠牲」からはブレることに…。
とはいえ、ボクはこんな「自己犠牲」を肯定したいとは思わないし、
デッドエンドよりはハッピーエンドの方が好きなので、
もしかしたらブドリが生きている可能性がある本作の展開の方が好きかもしれません。
噴火を誘発させた後のブドリとコトリの消息は描かれていませんが、
ブドリはコトリと共にバケモノの世界に入り、妹ネリと再会を果たす、
…なんて可能性もある終わり方です。
最後の最後もなかなか素敵な脚色だったように思います。

ブドリの声は小栗旬が務めましたが、始めは声がブドリの年齢に合ってないように感じ、
多少違和感があったものの、ブドリはどんどん成長するので、徐々に馴染みました。
妹ネリの声を務めた忽那汐里も、予想外に可愛い声で好印象でした。
今日はちょっと暇だったので長い感想になってしまいましたが、
今年公開のアニメ映画の中では洋邦含めて本作がダントツでよかったと思います。

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