ブログデンティティー

blog-dentity since 2013

アメイジング・ジャーニー 神の小屋より

先週末の興行成績ランキングで『ダンケルク』が1位になったようです。
昨今は実写洋画が日本の映画ランキングで1位を取るのも珍しいけど、
シリーズものではないオリジナル作品となると更に稀なことで、
さすがは当代随一のハズレなし監督クリストファー・ノーランですね。
私も楽しみにしていたので先週末に観ようと思ってたけど、
明々後日の今週木曜日がTOHOシネマズのサービスデーなので、
先週末に観てしまうとその日に観るものがなくなると考え温存しちゃいました。
サービスデイに観るものの候補としては『三度目の殺人』もあったのですが。
その『三度目の殺人』は日本のハズレなし監督、是枝裕和の作品で、
ヴェネチア映画祭のコンペ部門にも出品されていましたが、
惜しくも最優秀作品賞である金獅子賞は逃してしまったみたいですね。
でもハリウッド映画ファンの私はそこでもハリウッド映画を応援してたので、
ギレルモ・デル・トロ監督の『The Shape of Water』の受賞は嬉しいです。
他にもダーレン・アロノフスキー監督の『Mother!』や
ジョージ・クルーニー監督の『Suburbicon』など今年のコンペ部門は
ハリウッド映画が豊作で、なかなか興味深い大会でしたね。

ということで、今日は久々にハリウッド映画の感想です。
※この記事にはクリスチャンにとって不愉快な表現が含まれます。

アメイジング・ジャーニー 神の小屋より
The Shack

2017年9月9日日本公開。

宗教くさい邦題の本作ですが、そのものずばりクリスチャン映画です。
私は無宗教で宗教そのものは好きではないのですが、
なぜ人々が宗教なんて如何わしいものに嵌ってしまうのかに関心があるので、
布教や信仰心を煽るための宗教映画にも知的好奇心が沸き、けっこう観ます。
最近では日本舞台のクリスチャン映画『沈黙』と『ハクソー・リッジ』を観ましたが、
神という存在しないものを肯定するのは非常に困難(というか不可能)で、
両作ともクリスチャン映画でありながら神の無力さが描れており、
そういう自己矛盾も宗教映画の面白いところです。
『沈黙』も『ハクソー・リッジ』も敬虔なクリスチャンの主人公が窮地に立たされ、
神の助けを必要としているにも関わらず神は沈黙し何もしてくれない、
という内容でしたが、助けてくれない神に何の価値もないのに、
なぜクリスチャンは神を崇拝するのか、無宗教の私は理解に苦しみます。
本作はそんな私の疑問に答えてくれる内容でとても興味深いです。

しかしキリスト教の司祭や関係者たちは本作および本作の原作小説に対し、
「神を誤解している」「異端的だ」「聖書に無理解」「教育上有害だ」などと
フルボッコで批判しているため、教会の解釈とは乖離があるのでしょう。
とはいえ本作は、全米初登場3位の大ヒットを記録しているし、
原作小説は口コミで爆発的に売れたらしいので、
(YNタイムズのベストセラー・リスト、70週連続一位だったらしい。)
一般的なクリスチャンは本作を受け入れる人も多かったのでしょうね。
無宗教の私でも一部受け入れられる内容だったので、
教会も本作の解釈を受け入れた方が信者を増やせるんじゃないかな?

本作の主演は『アバター』でお馴染みのサム・ワーシントンです。
基本的に宗教映画は労せずとも信者から鑑賞料を搾取できるため、
そんなに人気俳優を起用する必要も意味もないのですが、
大人気だったワーシントンも宗教映画に出るほど落ちぶれたのか。
ワーシントンは『ハクソー・リッジ』の脇役に続きクリスチャン映画連投ですが、
彼自身、敬虔なクリスチャンだったりするのかな?
代表作『アバター』もキリスト教の思想と相反するところが多く、
教会から批判されていたみたいですが…。
日本としての注目キャストとしては、日本人女優すみれが出演しています。
日本人俳優としては異例なくらいの重要な役どころです。
私は彼女のことを全く知らなかったのですが、石田純一の娘なんですね。
ハリウッドではそんな親の七光りが通用するはずもなく、
オーディションで役をゲットしたらしいけど立派なものです。
今後もアメコミドラマ『インヒューマンズ』などに出演するらしいけど、
少し気が早いが、二世タレントが親を越える稀有な例ですね。
以下、ネタバレ注意です。

主人公マックは敬虔なクリスチャン女性ナンを妻に持っています。
ナンは敬虔すぎて、神を親しみを込めて「パパ」と呼ぶくらいです。
それは神に対して馴れ馴れしすぎて失礼じゃないかと思ってしまうが、
彼女たちの幼い次女ミッシーにも移ってしまったみたいで、
ミッシーの本当のパパであるマックはちょっと複雑じゃないかな?
なおミッシーはマックのことは「ダディ」と呼んでます。
ある週末、ナンがクリスチャンのセミナーに参加するらしいので、
マックは長男ジョシュ、長女ケイト、次女ミッシーを連れて、
ワロワ湖にキャンプに行きます。
ジョシュとケイトがボート遊びをしますが、ケイトの悪ノリでボートが転覆。
溺れたジョシュを、慌ててマックが救助して事無きを得ますが、
救助のために少し目を離した間にミッシーの姿が消えてしまい…。
マックは神頼みし、警察も出動してミッシーを捜索しますが全く見つからず。
現場にはテントウムシの飾りが付いたピンが残されており、
警察は少女を狙う誘拐殺人魔「テントウムシの男」の仕業だと断定します。
私はキャンプ場で知り合った親切な男エミルを疑ったけど違うんですね。
その後、湖の近くの山小屋でミッシーの服と血痕が発見されます。
遺体こそ見つかりませんでしたが殺されたのは間違いないようで、
地元に帰った家族は空の棺で葬式を行います。
なおテントウムシの男も結局捕まってないみたいで、
ミッシー含め少女6人を誘拐した変態殺人鬼を野放しにするなんて、
ここの警察は相当無能ですね…。

マックは自責の念に駆られて落ち込み、家族との関係もギクシャク。
特に年頃の長女ケイトからは無視されるようになってしまいます。
30年ぶりの大雪が降ったある日、マックがひとりで留守番していると、
郵便受けに消印のない手紙が投函され、それを読んでみると
「マックへ。私に会いたければ週末に例の山小屋へ来い。パパより。」と。
マックは性質の悪すぎる悪戯かと思いますが、郵便受けの周りに積もった雪に
全く足跡が残っておらず、或は本当にパパこと神の手紙なのかもと考え、
ひとりで車に乗って小屋へと向かいます。
何者かから投函された手紙の謎を暴く、ミステリーな展開でワクワクしますね。

マックは山小屋に到着しますがモヌケの空で何もなく…。
しかし暫くすると山小屋に近づいて来る若い男の姿を発見し、
マックは拳銃を握りしめて男の背後から接近しますが、
男は振り向き、「来いよ、マック」と言うのです。
すると雪に覆われていた辺りは暖かな陽気の森林に変わり、
廃屋だった山小屋も素敵な家屋に変化し、中には2人の女性がおり、
男と共にマックを歓迎してくれるのです。
こんな超常的な状況になったら普通ならもっと恐れ慄くと思うけど、
マックはこの男女3人が「在る存在」、つまり神だと察するのです。
男女三人も臆面もなく自分たちが神で、手紙の差出人だと明かします。
エロウジアと名乗る黒人女性は父なる神ヤハウェで、
初めに会った若い中東系男性が神の子イエス・キリストで、
サラユーと名乗るアジア人女性が聖霊です。
いわゆるトリニティの父と子と聖霊ですが三位一体ではないんですね。
トリニティを一体と考えるのが一般的なキリスト教とは少し異なる解釈です。

それにしても白い髭を蓄えた男として描かれる父なる神が黒人女性とは意外。
なぜか幼少期のマックの家の隣人である優しいオバサンと同じ姿ですが、
彼らはマックの中にあるイメージを借りて具現化しているのかも。
イエスもユダヤ人ではなく中東系ですが、口髭のある細身の青年で、
イエスのパブリックイメージに近い風貌です。
しかしさゆりが演じる聖霊サラユーの元ネタがちょっとわかりませんね。
トリニティを黒人女性、中東系男性、アジア人女性にすることで、
いわゆるポリティカルコレクトレスを図ったのかもしれません。
ほぼクリスチャンな白人至上主義者には不愉快な設定でしょうね。

マックはパパことエロウジアに「私があなたを必要とした時にどこにいた?」
「なぜ罪のない娘ミッシーを見捨てた?」と当然の疑問をぶつけます。
これは『沈黙』や『ハクソー・リッジ』の主人公も感じた神への不信感で、
私もそれについてどう肯定するつもりか非常に気になるところです。
しかし曖昧に返答するエロウジアに対してマックは更に
「そういえばあなたは磔にされた息子イエスも見捨てたな」と指摘します。
恐ろしく正論で、私も「もっと言ってやれ」と思いました。
するとエロウジアは自分の手首にある聖痕を見せて「私もその場にいた」と。
つまりやはり三位一体で、磔に遭った時もイエスと一体だったということかな?
全能の神なら磔も防げたはずで、全く釈明になっていませんが…。

また別の機会にマックはエロウジアに「嫌いな奴はいないのか?」と問います。
彼女が「いない」と断言するので、「怒って天罰は与えないのか?」と更に追及。
すると「罪自体罰であり、災厄も私には善だ」と哲学的な返答が…。
続けてエロウジアは「あなたの世界だけで見ている」とマックを諭すのです。
つまりミッシーが殺されたことはマックの視点では災厄だけど、
別の視点から見たら善だということですよね。
これを善と感じるのはミッシーを殺して快楽を得たテントウムシの男だけで、
変態誘拐殺人犯を神が擁護するというとんでもない展開です。
私も違和感を禁じ得ない理論ですが、マックはブチギレし、
神の山小屋を去ろうとしますが、彼が怒るのも当然ですね。

そんなマックにサラユーが話し掛け、帰る前に仕事を手伝ってほしいと
いろんな植物が狂い咲くカオスな花畑に連れて行きます。
ある植物を掘り出す仕事ですが、その植物を触ろうとしたマックに
サラユーは「毒があるから気を付けて」というのです。
マックが「神が毒性植物を育てるなんて」と意外がると
サラユーは「この毒も使い方によっては薬になる」と言い、
「善悪の判断の基準はあなたの主観にすぎない」
「あなた自身の判断すら時が経てば変わることもあるはず」と諭します。
たしかに彼女の言い分はわかりますが、娘が殺されたことは
いくら時がたってもマックが善だったと判断することはないと思うけど…。
あとサラユーは人々が主観で善悪を判断することで起きる弊害として
戦争を挙げていますが、戦争だってある立場の人には善かもしれないし、
時が経てば必要だったと肯定される場合も多いし、例としてはイマイチかも。
ただマックは一部理解を示し、今暫く山小屋に残ることにします。

サイユーと別れた後、マックはイエスと出会います。
さすが人間時代に元大工だけあってイエスはDIYに励んでました。
マックはトリニティの中ではイエスといるのが一番落ち着くみたいですが、
イエスは元人間なので親近感が沸くみたいですね。
イエスは「湖の対岸に見せたいものがある。ボートで先に行ってくれ」と言い、
マックは言われるままに湖に漕ぎ出すと、ボートは浸水して沈み始め…。
するとイエスが湖面を歩いて助けに来てくれて、
助けられたマックも湖面を歩けるようになるのです。
特に意味のないエピソードでしたがイエスらしさを演出したかったのかな?
やたらとフレンドリーなイエスに対し、マックが「宗教の印象とは違う」と言うと、
イエスは「宗教とは厄介なものだ」と宗教に対して否定的な見解を示します。
マックは「でもクリスチャンとして守るべき規範はあるだろう?」と問うと、
イエスは「宗教の奴隷はいらない、私はクリスチャンじゃないし」と返答します。
これでは信者を統制したい教会や司祭が本作を批判するのも納得ですが、
宗教嫌いの私的には実に腑に落ちる見解ですね。
イエスはユダヤ教徒なのにイエスの信者は別宗教を信仰してるわけで
なんだか滑稽な話です。

歩いて湖の対岸まで渡ると、イエスは「ここからはひとりで行け」と
マックに一本道の山道を進ませます。
言われるままにマックが山道を進むと洞窟に入り込み、
そこで英知の化身だと自称するヒスパニック系女性に出会います。
彼女は「今日は裁きの日だ、あなたに裁いてもらう」と言い、
「神は善き存在か?」とマックに問います。
マックが「少なくとも平等とは思えないが俺には裁けない」と答えると、
彼女は「人間は日々何かを裁いている、殺人犯など犯罪者は有罪か?」と
当たり前の質問をし、マックも当然「有罪に決まっている」と答えます。
すると彼女は「ではDVする夫は有罪か?」とマックの父の映像を見せます。
マックの父はクリスチャンですが酒に酔っては母や息子に暴力を振るうDV男で、
それに耐えかねた13歳のマックは、父の酒に殺鼠剤を盛り、彼を殺したのです。
英知の化身は「このDV男の息子は有罪か?」と意地悪な質問を投げかけ、
返答を躊躇するマックに「あなたは父を裁いただろ」と追い打ちをかけます。
彼女はトリニティと違ってなかなか手厳しい神ですね。
あ、キリスト教は一神教だから彼女は神ではないか。

英知の化身は質問を変え「誘拐犯は有罪か?」と問います。
マックが「もちろん有罪だ」と即答すると「誘拐犯の父親は有罪か?」と問い、
マックは「父親も有罪だ」と答えます。
犯罪者の家族まで罪を問えるかは微妙なところですが、
犯罪者を生んだ者を恨むのは被害者感情としては理解できますね。
すると彼女は「父を遡ればアダムだ。アダムは有罪か?」と意地悪な質問。
更に「創造主であるパパは有罪か」と追い詰めます。
そのロジックで責められたら「有罪だ」と答えるしかありませんね。
「神は善き存在か?」という最初の問いに誘導尋問で答えてしまったわけです。
すると彼女は「では神と代行として裁いてもらおう」と言い、
「長男ジョシュと長女ケイトのどちらを地獄に落とすか選べ」と選択を迫ります。
意地悪な究極の選択で、当然マックは「選べない」と答えます。
理不尽で無意味に思える究極の選択ですが、おそらく彼女が言いたいのは、
神にとっては変態誘拐殺人鬼も次女ミッシーも神の子で同等であり、
どちらを裁くなんて選択は出来ないということでしょう。
長女と長男と、殺人鬼と被害者少女では全く比較にならないと思うが…。

というか、どうも神には人間を裁いたり災厄を与える力はないらしく、
英知の化身は「事件は神ではなく罪ある人間の招いたことだ」と神を擁護。
要するに『沈黙』や『ハクソー・リッジ』でも描かれていた通り、
神は無力で災厄に対して沈黙するしかないということですね。
それなら宗教に何の意味があるんだと思ってしまいますが、
彼女は「人間に神から離れる自由がある限り悪に浸け込まれる」と説明。
つまり神を信じて善に務める人間ばかりならば殺人事件や戦争は起きない、
だから宗教を広めることは重要だ、というロジックみたいです。
「災厄は神の試練だ」的な一般的なキリスト教の解釈より納得できる論理です。
ただ宗教の有無に関わらず善人は善人だし、無宗教の私も人殺しはしないし、
この理論が納得できるからって入信しようとは微塵も思いませんが。
これも一種の性悪説なんでしょうね。
後にエロウジアも「私は悲劇から最善のものを引き出せる」
「だからといって悲劇を作ったりしない」と釈明しています。
つまり悲劇を避けることは出来ないが、悲劇に見舞われた人を癒すことはできる、
と言う意味だと思われ、その点は確かにそうだと思うし、宗教の意義も認めます。

この意地悪な裁きごっこでマックが納得したとは思えませんが、
英知の化身は最後にあの世の様子を見せてくれ、
そこにはイエスと楽しそうに遊ぶミッシーの姿があり、
幸せそうな娘を見たマックは自責の念が緩和されたのか納得したみたいです。
これまでトリニティはマックを必死に説得してきたわけだけど、
端から天国の様子を見せてやれば済む話でしたね。
その後、トリニティはマックが毒殺した父親とも再会させてくれて、
父子は和解することが出来ましたが、死者と会すことが出来るなら、
ミッシーとも会わせてあげたらいいのに、ケチな神だ。

翌朝エロウジアはマックを登山に誘いますが、
なぜか黒人女性ではなくアメリカ先住民の男性の姿で…。
なぜ姿を変えたのか謎ですが、デブの女性では山登りに不向きと思ったのか、
あるいは黒人女性を演じるオクタビア・スペンサーのスケジュールの都合か。
ある程度登山したところでエロウジアは「これから君に辛いことをしてもらう」
「娘を殺した犯人を赦しなさい」と言い出すのです。
娘を見捨てた神については理解し赦したマックですが、
さすがに娘を殺した張本人の変態殺人鬼を赦すのは拒否します。
しかしエロウジアは「彼も私の息子だ」と食い下がるのです。
厚かましいにも程がある親馬鹿ですが、マックも根負けして犯人を赦します。
これはキリスト教では強姦も殺人も赦されると取られかねない展開で、
教育上有害というか倫理的にかなり問題があると思ってしまいますが、
犯罪者への布教としては有効かもしれませんね。
実際に刑務所での布教活動は活発だし、犯罪者は宗教のいいカモです。
犯人を赦したご褒美なのか、エロウジアは娘の遺体を見つけ出してくれ、
トリニティと一緒に葬儀を行い、カオスな花畑に埋葬してくれます。
これにより空の棺で葬儀するしかなかったマックの後悔も和らぎます。

葬儀の後、トリニティはマックに、山小屋に残るか家に帰るか問います。
ここに残ればいつでもミッシーの様子を見られるという特典付きですが、
マックは家族のもとに帰ることを選択します。
トリニティは帰ったら長女ケイトを救ってやってほしいと頼みます。
ケイトも妹の死に自責の念を抱えて苦しんでいるみたいです。
たしかに父親が妹から目を離したのは、彼女のボートでの悪ノリのせいで、
あるいはマックよりも強く自責の念に駆られているかもしれませんね。
それならトリニティもケイトをマックに任せるのではなく、マックにしてあげたことを
ケイトにもやってやればいいと思うのに、やっぱりケチで不平等な神だな。

しかしそれもそのはず、この山小屋での出来事は全てマックの夢だったのです。
家に帰ると決断したマックは、廃墟の山小屋で目を覚まします。
まさかの夢オチで、夢オチなんて禁じ手を使えば作品の評価も地に落ちるが、
それ以上に神の存在を彼の妄想で片付けたわけで、
宗教映画としてもその存在意義を全う出来てない気がします。
ただそもそも神の存在を信じていない私にとっては、
夢オチは「当然そうなるだろう」と思える納得の展開でしたが、
なんとこの夢オチは単なる夢オチではなく、斬新な二重夢オチだったのです。
山小屋から車で家に帰る途中、マックはトレーラーと衝突事故を起こし、
病院のベッドの上で目を覚ますのですが、実は衝突事故は帰り道ではなく、
山小屋に向かう際に起きていたのです。
つまりマックは山小屋自体に行っておらず、その行きしなに事故に遭って
病院に担ぎ込まれ、全ては昏睡状態の中で見た夢だったのです。
結局は夢オチだし、二重夢オチに何の意味があるのかは疑問ですが、
単なる夢オチだという批判を回避するための一捻りだったのかな?
私も不覚にもちょっと面白いと思ってしまいました。
「マックの話に懐疑的な人もいるだろう、信じる信じないはあなた次第です」
という都市伝説芸人の決め台詞のようなナレーションが最後にあるけど、
全てマックが見た夢でしかないんだから信じるも信じないもないよね。

宗教を度外視すれば他人を赦すことの意義を描いた物語であり、
不寛容な社会に対する警鐘でもあり、そこには共感できるところもあります。
(殺人犯まで赦す必要なないと思うけど…。)
ただ本作の原作者は原作小説の印税の配分で共著者らと法廷闘争したそうで、
赦すことの重要さや裁くことの無意味さを描いているのに、
どの口でそんなことを言ってるのかと台無しになりますね。
それ自体が宗教の無力さを露呈している、いい例でしょう。

関連作の感想
沈黙 サイレンス
ハクソー・リッジ

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://blrpn.blog.fc2.com/tb.php/1862-9af4dbda
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad