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偉大なる、しゅららぼん

先日、アカデミー賞に続き、日本アカデミー賞も発表されました。
アカデミー賞の最優秀作品賞は予想外の結果でしたが、
日本アカデミー賞の最優秀作品賞は予想通り『舟を編む』が受賞しましたが、
ボクも候補(優秀作品賞)5作品は全て観ていたけど、
圧倒的に『舟を編む』の出来がよかったので納得の受賞結果です。
他の部門の候補作も全て観ましたが、最優秀アニメ作品賞以外の結果は納得。
(話題賞はまともな映画賞ではないので論外。)
ただ真木よう子の最優秀主演女優賞と最優秀助演女優賞の二冠は、
納得の結果ではあるもののちょっと予想外だったかな。
最優秀主演男優賞の松田龍平も、優秀助演男優賞にもなってるし、
尾野真千子も優秀主演女優賞と優秀助演女優賞になっているので、
日本映画界の俳優不足は相当深刻なようですね。

こんなふうに予想したり結果に一喜一憂したりしながら、
日本アカデミー賞を楽しめるのもこれが最後になりそうです。
『舟を編む』は例外として、昨今の日本映画の不甲斐なさは尋常ではなく、
あまり日本映画を観に行こうという気分にならなくなってしまったので、
次回の受賞作や候補作はほとんど観ていない状況になる見込みのため、
未鑑賞作品ばかりが競う賞レースなんて楽しめるはずないので。
どうせ来年の日本アカデミー賞の最優秀作品賞は『永遠の0』です。
今の日本映画の現状で、今年それを超える作品が現れる見込みはないです。
ついでに言えば、最優秀主演女優賞も黒木華でほぼ決まりでしょう。
権威主義な日本アカデミー賞が、銀熊賞受賞者を受賞させないはずないので。

ということで、今日は不甲斐ない日本映画の感想です。
今月は実写の日本映画をこれ以上観ることはないと思われます。

偉大なる、しゅららぼん
偉大なる、しゅららぼん

2014年3月8日公開。
万城目学による同名小説を、濱田岳と岡田将生の主演で映画化。

琵琶湖のすぐそばの町・石走で、先祖代々不思議な力を継承してきた日出一族。その跡取りで最強の力を誇るとされる淡十郎(濱田岳)は、高校生でありながら住民からあがめられる殿様のような生活を送っていた。そんな彼のもとへ、分家の涼介(岡田将生)が力の修行をするために訪れる。淡十郎と同じ高校に通うものの、彼とおそろいの真っ赤な特注制服を着せられ、従者のように扱われる涼介。そんな中、日出一族と対立する棗一族の広海(渡辺大)とのトラブルが勃発し、それが世界の運命を揺るがす事態に発展する。(シネマトゥデイより)



前述のように、ボクは日本映画の現状に幻滅しているのですが、
あえて避けているわけではなく、観たい作品があれば観に行きます。
でも鑑賞のハードルはかなり高くなってしまっているので、
よほど惹きつける事情が限りは観に行こうとは思いません。
そんな中で観に行った本作は、その惹きつける魅力があったということです。
そのひとつは、数少ない好きな日本人俳優である濱田岳の主演作ということ。
でもそれだけでは鑑賞に至るにはまだ弱く、決め手となったもうひとつの理由は、
万城目学の原作小説の映画化ということです。
ボクは万城目学の小説は読んだことありませんが、映像化作品は全て観ており、
アタリもハズレもありましたが、とても親しみを感じています。
関西人である万城目学の小説は、関西の都市を舞台にしたものが多く、
映像化された『鴨川ホルモー』は京都、『鹿男あをによし』は奈良、
『プリンセス・トヨトミ』は大阪を舞台にした物語で、
関西人のボクとしても、とても親近感が湧くし、単純に嬉しいです。
本作も滋賀を舞台にした作品ですが、ボクは関西の西の端の兵庫県民なので、
関西の東の端である滋賀のことは、他の府県に比べても馴染みがありません。
でも万城目学が書いた小説が原作ならばと、期待して観に行きました。

まず舞台となった滋賀の扱いですが、琵琶湖を題材にした物語なので、
滋賀特有の内容なのは間違いないけど、琵琶湖以外に滋賀らしさは全くなく…。
万城目学の小説で関西制覇するために、滋賀の物語を捻り出したのだろうけど、
大阪生まれ京都育ちの人なので、滋賀には疎いのかもしれません。
ボクも滋賀で連想できるものは、琵琶湖と「ひこにゃん」くらいしかないし…。
…というか、滋賀県民には申し訳ないけど、今ネットで検索してみても、
滋賀の名所や名物って、ちょっと弱いですね…。
これではもし万城目学が滋賀に精通していたとしても、
滋賀らしい物語にするのは困難かもしれません。

設定に滋賀らしさを取り入れられなかったのは仕方ないとしても、
本作の「万城目ワールド」のファンタジー設定は、かなり出来が悪いです。
とにかく物語が進むに従い、新しい設定が次々と出てくる場当たり的な状態。
ファンタジーは超自然的な世界観を描くものだけど、
それは決して何でもアリな世界観ではなく、
その世界観のルールに則ったものでないければいけません。
例えば主人公たち日出一族は、人の精神を操る能力が使えますが、
いわば彼らがそんな能力を持っているということが、この世界のルールで、
観客もそれを承知したうえでファンタジーとして楽しむことになるのです。
主人公がある困難に直面したら、その能力をうまく使って解決するべきだけど、
本作は様々な困難な状況に応じて、次々と新しい能力設定が付加されるという、
後付けとしか思えないような展開になっています。
例えるなら『ジョジョの奇妙な冒険』第三部のクライマックスで、
主人公が急に時を止められるようになるような「聞いてないよ」な展開が、
本作ではクライマックスのみならず、至る所で頻出するのです。
何でもアリなファンタジーほど面白くないものはなく、
期待していた本作ですが、残念ながら駄作だったと言うしかありません。
以下、ネタバレ注意です。

琵琶湖畔にある石走には、代々不思議な力を伝承する日出一族が暮らしています。
なんでも天平の頃(奈良時代)に琵琶湖の神から力を授かったそうで、
同じく棗(なつめ)という一族もまた別の力を授かっており、
古来より両家は覇権争いを繰り広げていたようなのですが、
1300年の歴史があるのに、なぜか今の日出家の当主・淡九郎はまだ9代目です。
それだとせいぜい300年程度の歴史になる気がするのですが…。
そんな由緒ある日出家に、親戚の涼介が住み込みの修行にやってきます。
次期当主(10代目)淡十郎の再従兄弟らしいので、7代目の曾孫ってことになり、
彼も日出の血筋なので、例の力を持っているようです。
(6親等でも力を継承できるとなると、かなりの人数の能力者がいそうですね。)
涼介も淡十郎も同い年で、15歳の高校一年生という設定ですが、
彼らを演じるのは岡田将生と濱田岳…。
ボケにしても無理がありすぎる年齢設定です。

涼介も淡十郎と同じ高校に入学しますが、
そこにはライバル棗家の跡取も入学しています。
日出家は湖東、棗家は湖西にあり、家はかなり離れているはずだけど…。
棗家は人の肉体を操る能力があり、棗はことあるごとに淡十郎に勝負を挑み、
能力を使いますが、能力者同士には無効です。
しかし能力を使った時に、能力者しか聞こえない耐えがたい騒音が発生し、
棗が能力を使うたびに涼介は悶え苦しみ、一般生徒から変な目で見られます。
ところが淡十郎はその騒音も全く平気そうで…。
淡十郎は「生きる伝説」と言われるほど強力な力を持っており、
彼ぐらいの能力者になれば騒音も平気なのだろうと涼介は思います。
そんな強力な能力者の淡十郎ですが、その能力を「美しくない」と毛嫌いし、
棗に勝負を挑まれても全く使おうとはしません。
鈍感なボクでもピンときたので、勘のいい人なら気付くでしょうが、
実は淡十郎は、能力者ではなかったのです。
これは物語の中盤過ぎで明かされる淡十郎の秘密で、
前半の重要などんでん返しのはずですが、演出が拙いのか、
端から隠す気がないのか、あまりにもバレバレで全く驚けませんでした。
なのでオチがわかっている前半は、全く面白くないんですよね…。
それに淡十郎に力がないのであれば、序盤で描かれていた
不良のチョンマゲ事件の説明が付きません。

町の名士である日出一族には誰も逆らえませんが、
(逆らおうにも精神を操られるので言いなりになってしまう。)
ある日、日出家を訪ねて来た校長が、唐突に「町を出て行け」と言い、
不思議な能力で当主・淡九郎の体の自由を奪い、
更にその場にいた淡十郎や涼介も不思議な力で眠らせます。
体の自由を奪うのは棗家の肉体を操る力、眠らすのは日出家の精神を操る力で、
両家の力を使える校長ですが、彼はどちらの一族でもありません。
なぜ力が使えるのか、一体何が目的なのかが物語の大きな謎となります。
校長は棗家にも訪れ、やはり棗家当主の体の自由を奪い、
琵琶湖から去るように要求するのです。
その瞬間を棗家の夫人も見ていたのですが、彼女は棗の血筋ではなく、
能力を知った一般人は琵琶湖の神の生贄にしないといけないらしく、
棗は母親を助けるために、ライバル日出家に協力を要請します。
妻にも能力を知られてはいけないなんて、ちょっと無理があり、
棗と日出を協力させるための都合のいい後付け設定だと思います。

どうやって棗夫人を助けるかといえば、彼女の記憶を改竄し、
能力に対する記憶を消してしまおうというのですが、
それができるのは日出家の長女で淡十郎の姉である清子だけです。
彼女は人の心が読める能力者で、記憶の改竄まででき、
更にそれらは能力者に対しても有効という例外的な存在なのです。
日出家が授かった能力は精神を操るというものだったはずなのに、
例外にも程があり、都合がよすぎる能力設定です。
棗の願いを聞き入れた清子は淡十郎らとともに棗家に赴き、
棗夫人の記憶を書き換えてあげるのですが、そこに再び校長が現れます。
すかさず清子が精神を操る能力で校長を攻撃しますが、なぜか通じません。
清子の能力は能力者にも有効という都合のいい設定だったのに、
都合の悪い時はその設定は適用されないという都合のいい設定です。
校長は能力で棗の妹を攻撃しますが、咄嗟に涼介と棗が力を使うと、
尋常ではなく耐えがたい騒音が鳴り響き、涼介たちは気絶。
校長はその音が聞こえないようでしたが、直後、何かに怯えて逃げ帰ります。
その音の擬音語が、本作のタイトルにも使われる「しゅららぼん」ですが、
ボクにはただうるさいだけで、「しゅららぼん」とは聴こえなかったです。

「しゅららぼん」は日出家と棗家の力がぶつかった時に鳴る音で、
龍(琵琶湖の神?)を呼び出す合図なのだそうです。
またしても急に出てきた新しい設定ですね。
都合のいい設定満載の清子は龍と話すことも出来るそうで、
校長を倒すために龍に相談し、淡十郎に御神水を飲ませるように助言されます。
淡十郎は端から能力がないわけではなく、竹生島での日出家の儀式で、
御神水を飲まなかったため、能力が目覚めていないだけだったので、
飲みさえすれば「生きる伝説」とまで言われる凄まじい能力が目覚めるようです。
なぜ飲まなかったかといえば、15歳の儀式で御神水を飲んだ清子が、
人の心が読めるようになり、性格が変わってしまったのがショックで、
そんな能力は欲しくないと思ったからのようです。
でもそれは10年も前の話で、当時の淡十郎はまだ5歳のはず。
そんな幼い時の姉の変化なんて覚えているものですかね?
清子も弟の気持ちが読めるわりには、弟に冷たい態度を取るのは変でしょ。

とりあえず、御神水が必要なので取りにいかなくてはなりませんが、
琵琶湖の湖底にあるため、浜で再び「しゅららぼん」して龍を呼び出し、
モーゼのように湖面を割ってもらい、取りに行きます。
そんなことしなくても、儀式の時に竹生島で御神水を飲めるんだから、
竹生島に行けばストックしてると思うんですけど…。
その帰り道、湖面が元に戻り始め、涼介と棗は波に飲まれそうになりますが、
棗の能力で波の動きを止めてしまうのです。
棗家の能力は人の肉体を操るというものだったはずなのに、
いつの間にか時間を止める能力という設定にすり替わってます。
しかも秘術として、時間を戻すことも出来るそうで、
それなら始めから、時間を操る能力という設定にすればいいのに、
すり替えが起こったのは、場当たり的に物語を作っている証拠だと思います。

御神水を持ち帰るも、淡十郎は飲むのを拒否。
仕方なく清子らは淡十郎の力なしで校長と戦うことに。
その結果、校長はやはり能力者ではなく、誰かに操られていることが判明します。
校長を操っていたのは日出家に仕える船頭の老人、源治郎でした。
正直、これは予想外の展開でビックリしたけど、この真犯人には納得できません。
本作の序盤で、能力者には名前に三水偏が使われるというルールが説明され、
その時わざわざ源治郎を例に出して、三水偏を2回使う場合は、
能力者ではないという「二度付け禁止ルール」が語られます。
ところが実際に源治郎は能力者だったわけです。
その理由として、源治郎は湖の能力者ではあるけど、琵琶湖の能力者ではなく、
秋田県の八郎潟の能力者であるため、琵琶湖の二度付けルールは適用されない、
というまたしても「聞いてないよ」な設定が登場します。
しかも日出家や棗家は湖の民なので、琵琶湖を離れると能力が使えないが、
源治郎は八郎潟からかなり離れているのに、琵琶湖の力を勝手に借りて、
八郎潟の能力を使いまくっているので、聞いてた話と違います。
都合よくルールをコロコロ変えないでほしいです。

源治郎は60年ほど前に日出家に奉公に来ますが、
彼の能力を恐れた当時の当主により、記憶が改竄され、
能力のことも故郷のことも忘れてしまうのですが、
たまたま御神水を飲んでしまったことで、記憶が復活し、
自分の60年を奪った日出家に復讐しようとしたのです。
記憶を読んだり改竄できるのは、例外的な存在である清子だけのはずですが、
当時の当主は都合よく清子と同様の能力を持っていたわけですね。
能力が能力者に有効なのも清子だけのはずだけど、源治郎の能力も有効で、
八郎潟の能力はそのルールも適用されないということかな。
源治郎の時を止める能力で、清子は体の自由を奪われます。

自分の身勝手な思いで皆を酷い目に遭わせたと後悔した淡十郎は、
ついに御神水を飲み、力に目覚めるのですが、彼の目覚めた能力も、
人の精神を操るという日出家の能力とは全く違う新しい能力です。
なんと彼は雷を落とし、単独で龍を召喚することも出来ます。
ドラゴンアタックにより源治郎をぶっ殺した淡十郎ですが、
源治郎がいなくなったので、彼の能力で自由を奪われた人たちは
もう元に戻すことができなくなってしまいます。
そこで棗は、秘術の時を戻す能力で、事件が起こる前に時を戻すのです。
その秘術の代償として、棗の存在は皆の記憶から消えてしまうのですが、
なぜか淡十郎と涼介の記憶にだけは残ります。
なぜだかはわかりませんが、もうここまでご都合主義なファンタジーだと、
どんな納得できないことが起きても、もうどうでもよくなりますね。
百歩譲って淡十郎と涼介の記憶に残るのはいいとして、
なぜか源治郎も八郎潟の記憶を思い出しているのです。
御神水を飲む前の時間に戻ったはずなのに、もう意味不明です。

ご都合主義で場当たり的な設定が続出する本作ですが、
さすがに万城目学の原作はここまで酷くはないはず(と信じたい)で、
きっと映画化に際して、無能の監督や脚本家が、
筋を通すのに必要なところまで端折ってしまった結果だと思います。
ジャンル的にはコメディだと思うけど、客は誰一人として笑ってなかったし、
三又又三の金八の真似や、「ありがとう」浜村淳も滑り倒しで、
寒々しい空気が劇場を包み込んでいました。
唯一褒めるところがあるとすれば、女優陣が可愛かったことくらいです。
けっこう厳選したつもりだったのに、またしても駄作だったなんて、
またひとつ、日本映画に対する不信感が強まってしまいました。

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